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李通 (次元)[り つう]
李 通(り つう、? - 42年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将、政治家。後漢草創期の功臣の1人。字は次元。荊州南陽郡宛県(河南省南陽市)の人。父の李守は、身長9尺で、容貌は非常に奇異、性格は厳粛にして剛毅で、家中でも公務と同様に厳粛であった。家は代々商業を営んでいた。妻は光武帝(劉秀)の妹劉伯姫(寧平長公主)。従弟は李軼、李松、李汎。子は李音、李雄。日本語での読みには、「り とう」もある。後、光武帝の功臣団「雲台二十八将」と並び洛陽南宮の雲台で顕彰されたため、「雲台三十二将」のひとりと称されることもある。 == 事跡 ==
=== 反新の挙兵 ===
父李守が王莽の下で宗卿師を務めた劉歆に仕え、李通も五威将軍従事、巫県(南郡)県丞を歴任した。王莽統治の末年になると、李通は、父の李守から「劉氏再振興、李氏為補佐」の予言を聞き心に留め、また官吏生活にも嫌気が差していたため、官を捨てて郷里に帰った。 地皇3年(22年)から、李通は従弟の李軼と相談し、南陽の劉氏を支援して反新活動に従事することになる。李通は、李軼を劉秀の下に派遣し、また、李通本人も対面して、以後協力しあうことになる。李通は、劉秀と李軼を舂陵(南陽郡)の劉縯の下に送り出す一方で、自身は宛で挙兵の準備をし、長安に滞在中の父の李守とも連携していた。しかし、事が発覚してしまい、李通は辛うじて脱出したものの、李守と宗族64人はことごとく処刑されてしまった。李通は、劉縯、劉秀兄弟と合流し、地皇4年(23年)正月の泚水の戦いで、新の前隊大夫(新制の南陽太守)甄阜、屬正(新制の都尉)梁丘賜を撃破している。 更始1年(23年)2月、更始帝(劉玄)が即位すると、李通は柱国大将軍に任命され、輔漢侯に封じられた。翌更始2年(24年)2月、更始帝が長安に遷都すると、李通は大将軍に任命され、西平王〔西平は豫州汝南郡にある。〕に封じられている。李通は更始帝から符節を与えられて荊州を鎮撫することを命じられ、そこで劉秀の妹の劉伯姫と結婚した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李通 (次元)」の詳細全文を読む
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